スティーヴ・パクストン インタビュー
私がダンスに夢中になった理由の一つは
聞き手:福本まあや(富山大学)
──あなたにとってダンスの魅力とは何ですか。
【Paxton】私がダンスに夢中になった理由の一つは、自分の運動発達を完了させるためだと思う。その発達を見極め、それを完全なものにしたいと思うし、探求し、赤ん坊が動き始める時にしている本質的なことをやってみたいという飽くなき欲求が私にはある。動きとは何であり、何になり得るかを、徹底的に見つけ出したいということだ。身体や感覚を抑圧する環境を巧みに生み出している文化の中で、ダンスは、こうした探求を可能にし続けていると思う。[*]
──ダンスは現代の我々に、どのような意義を提供してくれると思いますか。
【Paxton】都会はとても興味深い場所だと思うが、郊外に出ると、感覚に必要とされることがいかに違うかに驚く。(都会では)何と身体を使わずにいるかと驚愕する。ダンスは、そういうことを思い出させてくれる。ダンスには、身体の可能性を探求するところがある。ダンスは、とても基本的なこと、つまり時間、空間そして重力といったものに、我々の関心を向かわせ、創造力を開花させてくれる。これは自然からの合図であり、我々の身体的な停滞状態に提供されるサービスのようなものだ。ダンスは、行き詰まりの都会人に対するモーニング・コールであり、仕事しかしない身体への刺激であり、子どもの発達に対する約束である。[*]
──子どもの発達に対する約束、とはどういうことですか。
【Paxton】子どもが成長してゆく時に、その子どもたちにされていた約束という意味だ。ダンスは、新たな身体の可能性を発見してゆくことができるんだという夢を、子どもに与えてくれる。
──身体の可能性を追求するという側面は、今回の「背骨のためのマテリアル」のクラスでもとても感じます。ただその時、ダンスが、武道やボディワークとは違う点とは何だろうか、という疑問がわいてくるのですが。
【Paxton】とても重要な違いがそこにはあると思う。ダンスは何らかの想像力を伴うものだと思う。武道というのは、その背後に病的なまでの疑い深さがあるように思う。もちろん戦う術を学ぶという意味においては、実用的で現実的かもしれないけれど。同様の考え方から、アメリカでは多くの人が銃を持っている。ボディワークも治療という点ではとても実用的なものだ。ダンスは自分を守ってくれるだろうか?ダンスにもセラピーの要素はあると思うけれど、セラピーそのものではない。では何故、ダンスは身体を使うのだろうか?それは、身体言語の可能性を追求し、そこから、よりアスレチックな動きへと、どうつながるかを追求することだと思う。そうしたことが、とても重要だと思う。
(ダンスを通して)我々の何が引き出されるのだろうか?それは我々が何かのプログラムから自由でいる時に、我々自身から引き出される何かだと思う。武道はある種のプログラムそのもので、鍛錬を重ねる励みとなるプログラムがそこにはある。ボディワークも同じ。でもダンスはもっとゆったりしている。確かに、振付のあるテクニカルなダンスは、とても窮屈なもので、ほとんど遊びは残されていない。それでも、テクニックの先には、想像力が求められる。それは武道やボディワークではあり得ない形で、我々から引き出されるだろう。
──観客のためのダンスと自分のためのダンスの違いとは何でしょうか。例えば、あなたはコンタクト・インプロヴィゼーション(CI)を始める前に、数年間ソロでの実験をしていますが、CI以前に、その試みをダンス作品にして、人前で踊りましたか?
【Paxton】しなかったと思うよ。その試みをきちんと形のある作品にしようとする努力は、しなかったように思う。教える素材としては使っていたように思うが。ただ、言っておきたいのは、自分が即興者で、ある考えをもっている時、それは自然と即興に出てくるものなんだ。だから、CI以前に、何かの上演をした時には、そのソロの動きの素材は、どこかに含まれ、現われていたと思う。
──少し質問を変えます。踊りたいという欲求と、それを人に見てほしいという欲求の関係をどう考えますか?
【Paxton】踊りたいというのは、自分を探求し、伸ばしたいという欲求だと思う。見られたいという欲求は、我々が社会的動物だから起こるものだと思う。我々のような社会的動物には、他者を喜ばせたいという欲求が、遺伝子にプログラムされている者がいる。我々とはそういうものなのだ。生まれつき、ある人は音楽を作るように、ある人は料理をするようにプログラムされているのだと思う。他者を喜ばせるというのは、とても興味深い領域だと思わないか?そして、成熟した人の心には、自分の可能性を十分に伸ばしたい、という基本的な欲求があると思う。我々は、さらに伸びてゆく可能性を持っている。
私は多くの画家を知っているが、彼らはいつも絵を描いている。彼らはそれらの絵をどうするか。自分の描いた絵の維持管理に時間を費やしていると、彼らの成長はそこで止まってしまう。ダンサーであれば、テクニックを磨いたり、振付やダンスを作る方法を展開したりするが、そこに停滞せずにいる唯一の方法は、それを上演することだと思う。で、上演をして、人に見られると何が起こるかというと…。こうした問いは、いつもここで行き止まりになる。
ダンサーが人に見られたいと思っているだけではなく、ダンスを見たいと人が思っているのだ。ほとんどの人は、ダンサーがスタジオでやっていることに一生を費やしたいとは思わないだろう。タンデュ(バレエの基本の動き)の1回1回が、人類への奉仕なのだ! それに見られたいのは一度だけではない、何度でも見られたいと思うだろう。そして同じダンスをしていれば、公演後に「また同じダンスなのか?」と観客は言ってくる。つまり観客が、新しいダンスをつくるようにダンサーに強制してくるのだ。だから、ダンサーは次のダンスをつくり、そして、それを上演する。何故なら、そこに停滞せずにいる唯一の方法が、上演することだから。踊りたいという欲求と、人に見られたいという欲求の関係は、観客が作り出しているのだと私は思う。
他者に見られたいという表現は、少しエゴイズム的な枠組みを感じさせる。そうではなくて、この質問は観客の覗き趣味という枠組みで問われるべきだと思う。どのダンスも、観客が建てた祭壇に捧げられる生贄だ!劇場を建てたダンサーなんて聞いたことがない。観客が劇場、つまり祭壇を、建てたのだ。
──良く分かりました。ただ、例えば、子どもはダンスを習うと「見て見て」と言います。そうした子どもに見られる、人に見てほしいという欲求については、どう考えられますか?
【Paxton】ある人は、踊りたいという欲求をもって生まれる。それから、赤ん坊が大人の周りで、指をさすなど、大人の注意を引くことを覚えた時に、人に見られたいという欲求が生まれるのだろう。しばしば大人は、赤ん坊を見る観客になる。
とはいえ、私にはそういう記憶はない。人前で踊るようになった時、舞台に立つことは本当に辛かった。ただ、その辛さを克服した後、上演中に、自分の中に、スーパーパワーが感じられることがあることに気づいた。それは私が生まれつき持っていた力で、最初はそれが辛かったのに、後に、それを使うことを学んだんだ。自分のスタジオで、一人で踊っている時には、決して出来ないことが、上演中には出来てしまう。だから今はもう、そのスーパーパワーを経験したいがために、人に見られたいという欲求が私にはある。それがその力を得られる唯一の方法で、それ以外、私には方法がないから。
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4月29日インタビュー、通訳:川口隆夫
『女子体育』第51巻-6号(日本女子体育連盟、2009年)より転載。
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*この言葉は、パクストン氏の許可を得て、Material for the Spine, a movement study (DVD-ROM, www.contredanse.org)にある彼の言葉より引用している。
